深く考えられる人と考えられない人― 考える力とは何か

高学歴で、物知りで、頭も良さそうなのに、物事をすぐ決めつけにかかったり、視野が狭かったりして

「ちゃんと考えてるのかなあ」

と思うような人が、あなたの周りにいませんか?

実は、私がまさにそんなタイプでした。

一方で、あんまり勉強してないよ、という人でも深く考えている人は、世の中のことをよく分かっていそうな感じがします。

ニュースを見てポロッと言う意見に、何か重みがあるんですよね。

考えられる人とは?

橋本徹フィーバーに流されない、考えられる人

以前、橋本徹さんフィーバーだったときがあります。

ニコニコ動画やYouTubeに、橋本さんが討論している動画がたくさん上がっており、タグには「橋本無双」のように書かれていました。

向かうところ敵なし。

大阪の人は意見が割れていたと思いますが、部外者のネット住民は橋本さん寄りの人が大多数だったようです。

私なぞは

「橋本さん、すごい!記者を論破してる!頭いいんだなあ」

とすっかり心酔してしまいました。

ところが、ある人が

「橋本さんって、元から政治家を志してた人ではないんだよね。
そういう意味で、二世議員の人ってよくバカにされるけど、小さいときからずっと政治家を目指してきたっていう方が信頼できると思う」

と言っていました。まあ確かに一理あるなあと納得したものでした。

昨日から政治家やります!と言い始めた人と、30年前から政治家を目指してきた人と、年月の重みは違います。

その是非は置いておいて、

皆が「これがいい」と騒いでいる中で流されずに、自分の考えを持ち、平然と語る、その姿勢から「考えている」人という感じがしました。

考えるのに知識は必要、しかし知識があれば考えられるとは限らない

考えるために知識は必要ですが、知識があれば考えられるというわけではありません。

たとえば、日本に原発は必要か?

という問いについて考えるためには、日本の地理、経済、原発の仕組み、他の発電方法の比較、世界のエネルギー問題、過去の原発事故の歴史、など幅広い知識がなければ、ちゃんと考えるということができません。

「とにかく危ないから絶対無くさないとダメだ!」とか、
「とにかく他の発電だけではエネルギーが足りないから絶対ないとダメだ!」とか、
非常に視野の狭い考えになってしまいます。

しかし、

知識を持っていても、どう判断していいか分からないのが「考えられない人」なのです。

地理は地理、経済は経済。事故は事故。

そんな風に、それぞれの知識がバラバラにただ頭の中に刺さっていて、連動して何かアイディアを形成することがないのです。

そして、

考えられない人は、意見を言うことができません。

もしかしたら間違えているんじゃないか、突っ込まれて恥をかくんじゃないか、と心に高いハードルがあり、「こうかな」と思っても引っ込めてしまいます。

では、考えられる人が持っている「考える力」とは何でしょうか?

どのように知識をつなげて、自分の意見を持つのでしょうか?

なぜ、それを表明することを恐れないのでしょうか?

考えられる人は何が違う?考える力とは?

考えられない人が思考のテクニックを学んでも使えない理由

私も、もっと考えられる人になりたいなあと思い、「考え方」を学ぼうとしたことがあります。

思考のテクニックはいろいろ体系化されていて、「ロジカル・シンキング」とか「クリティカル・シンキング」、「フェルミ推定」など、トレーニング本もたくさん出ていますね。

  • 論理的思考のためには、三段論法が基本です。
  • 知らないことでも知っている知識から推測しましょう。
  • チャンクアップしましょう。
  • 複眼的に考えましょう。

・・・等々。
私はそういった本を読んで、フムフムやってみようと思うのですが、すぐ挫折してしまいました。

よーし、フェルミ推定をやってみよう。今、日本にバスは何台走っているかな?

と考え始めても、

「結局、自分には分からない」
「考えたって、答えは出ない」

そんな思いがよぎって、「ああ無理」と中断してしまうのです。

テクニック的には理解しているし、部分的には使うこともできるのだけれども、やはり実生活で使えません。

分からない、知らない、答えがない、そういう問題に対して、

「こうか、いや違う。こうかもしれない、逆の考えや、抜けているところは何か?」

と自問自答して、ずーっと考え続けられる人は、何が違うのでしょうか?

考えられない人と考えられる人の前提の違い

私は、いろんな思考法を試しては挫折してきた結果、

「考える力」とは、思考のテクニックというよりもむしろ「態度」に近いという考えに思い当たりました。

いつまでも考え続けられる人は、そもそもの前提が違うのです。

世界*をどういうものとしてとらえているかが違います。

*ここでは、世界を「自分をふくむ宇宙の万物全て」とします。
自分には、意識とか心といった形のないものも含まれます。

考えられない人にとっての世界は、教科書や百科事典のように何か正しい姿を持っています。

それを知っているかどうかが問題であり、知らないことは恥なのです。

だから、よく知らない専門外のことには口をつぐんでしまいます。

考えられる人は、世界をそもそも「知りえないもの」「理解できないもの」ととらえています。

ですから、そこに正解も不正解もなく、混沌と暗闇の中を自ら切り開いて進んでいくものです。
「知り尽くすことができない」という前提なので、全ては「こうかもしれない」という可能性に過ぎず、その不安定さを受け入れています。

それゆえ、分からないこと・知らないことにも恐れを知らず、「無謀にも」自分で考えようとし、「大胆にも」意見を表明するのです。

「それは違う、いつ、誰が、こういう論文を発表して、それは間違いだと言っている」
とたとえ自分の意見が否定されても、

「そういう考えもあるんだね」と涼しい顔です。

そもそも、自分が正しいとも思っていないし、誰かが言ったこともある条件下での一つの可能性でしかないことを信じているからです。

このように、考えられる人と考えられない人には、世界が

「理解できるもの」「正解のあるもの」なのか、

「理解できないもの」「正解のないもの」なのか

という前提の違いがあるのです。

前提の違いは、世界と関わる態度の違いに現れます。

考える力は、そもそも「知らない」世界と関わろうとし続ける態度である

世界を何か百科事典的なものと感じていると、知識は自ずと「与えられるもの」とになります。

自分で考えたら、辞書の答えと違ってしまうかもしれません。

考える時間や労力は、無駄なのです。

すると、先に誰かが考えたこと・発見したことを調べたくなります。

何か分からないことがあると、すぐにインターネットで検索したり、誰か知ってそうな人を捕まえて聞いたり、本を読んだりします。

そして、それらの情報を正しいものとして、そのまま受け入れます。

世界は自分と切り離された別のものであり、自分が関わる余地はありません。

世界がそもそも「理解できないもの」という前提に生きていると、今世の中で常識になっているものや、ウィキペディアに載っているものは「一つの可能性」であり、「誰かの意見」に過ぎません。

もちろん、そういう人も情報は調べますが、受け取り方が違います。

なぜ、どのように、その結論に至ったのか?
誰が言っていることなのか?
その本やウェブサイトは何を目的に書かれているのか?
反対の立場の意見は無いのか?

このような疑問を持ち、考えながら読み進めます。

文字には表れていない「情報を発信した人」の思考のプロセスをたどり、背景を読み取って、本質をつかむのです。

そうすることによって、ただ表面的な知識ではなく、体験的に習得した「知恵」として記憶されます。

そして、その知恵を使って自分なりに考えを進めていきますが、どこまで行っても「答え」はありません。

考え続けるということは、世界と関わりを持とうとし続けることです。

それは、道なき道を進み、自分で道に名前を付け、世界と一体になっていく終わりなきプロセスです。

ゴールがある、と思うといつまでもたどり着かないことを苦しく感じますが、

そもそも終わりはないこと、正解がないことを受け入れたとき、考えること自体が楽しくなるのです。

とはいえ、具体的にどうしたら考えられるようになるのでしょうか?

次では、世界の関わり方から「考える力」を5つに分類し、考えられる人の態度・習慣と、すぐに取り入れられるポイントを述べていきます。

考えられる人の世界との関わり方から見る「考える力」

ここで、「考える力」を世界との関わり方の違いにより、次の5つに分類します。

  1. 世界をよく観ようとする
  2. 見えない世界を見ようとする
  3. 世界を設計しようとする
  4. 世界に言及しようとする
  5. 世界を変えようとする

それぞれの観点から、考えられる人の特徴と、考えらえるようになるヒントを抑えていきましょう。

1.考えられる人は世界をよく観ようとする|観察・洞察・推定

全て考えるということは、世界に興味を持ちよく見つめて、そこに何らかの意味を見出そうとすることから始まります。

つまり、混沌の中から秩序を見出す=読み解く力が最初に必要です。

読み解く力とは、「観察」、「洞察」、「推定」という3つの過程から成ります。

観察

観察とは読んで字のごとく、ものごとの在りようをよく観て察することです。

いつもと変わったところはないか、他と違うところはないか、多くのものに共通して見られることはないか。

そうして特徴をつかむことが考えるスタートです。

たとえば、

いつもの電車に乗っていたらやたら人が多くて混雑している。
大きなカバンやキャリーバッグを持った人が多い。

と異変に気づき、特徴をつかむのが観察です。

電車の中でも寝ていたり、明後日のことを考えていたりして、周りの様子に関心を持たなければ、こういう変化に気づきませんね。

今、目の前にある世界と関わっていく意識を持ち、周りをよく観ることが「気づき」のポイントです。

洞察

観察したことについて、「それはなぜか?」と考えを一段階進めるのが洞察です。

なぜ、今日に限って混雑しているのか?
なぜ、この人たちは大荷物なのか?
なぜ、電車移動を選択したのか?
なぜ、この時間帯、この路線なのか?

物事には、必ず、そうなっただけの理由が存在します。意味のないものはありません。

しかし、それは表面には上がっていない部分で、「なぜ?」で掘り下げることでしか分かりません。

「そういうものか」と思考停止をせず、「なぜ?」を問い続けるクセをつけましょう。

推定

推定とは、洞察で立てた「問い」に対して、可能性のある「仮の解答」を見つけることです。

もしかしたら、このあたりで何かイベントが開催され、旅行者が集まっているのかもしれない。
または、
もしかしたら、どこかに団体で旅行に行った帰り道で、前の駅でちょうど解散したのかもしれない。

もしかしたら、泊数が多かったのかもしれない。
もしかしたら、大量にお土産を買ったのかもしれない。
もしかしたら、スーツケースの中に人が隠れているかもしれない。

ここで大切なのは、事実をいろいろな角度、いろいろな視点から眺め、断定をしないことです。

全ては「そうかもしれない」という可能性の一つです。

より多くの視点から、たくさんの可能性を考えることができると、平べったかった思考が立体的になっていきます。

視点を増やすポイントは、、、

相手がいるならば、相手の立場から見てみる。
他に当てはまるものが無いか考えてみる。
部分から全体に広げてみる、またはその逆。
過去から未来まで、時間軸を移動してみる。

などを行ってみると良いでしょう。

「そもそも答えは存在しない」という前提に基づいて、ポジティブに「違うかもしれない」と問答を止めない姿勢が重要です。

2.考えられる人は見えない世界を見ようとする|抽象思考・想像力

私たちが考えられるのは、見えるものだけではありません。

見えない世界、というと、なんだかスピリチュアルとかオカルトチックに思われるかもしれませんが、誰でも普段から見えない世界を考え、その恩恵を受けているのです。

見えない世界を見る力には、抽象思考と想像力があります。

抽象思考

たとえば、みなさんもコンビニでお買い物をするときがあると思います。

値札には108円、とか324円とか、8%の消費税を含んだ金額が書いてあります。

ここで、「%」という「物」は存在するかというと、物体としてそこにちょこんと座っているようなものではありませんね。

「%」という見えない概念を見ているために、

「消費税8%で100円あたり8円だから、税込み108円の税抜き価格は100円だな」

と分かるわけですよね。

私たちは、現実にはないものを、あるとみなして考える力を持っています。

反対に、あるものをないとみなす場合もあります。

数字そのものも、存在はしません。

「豆パンを1個買う」というとき、豆パンの特徴を全部ないものとして、1という数字の概念として捉えています。

このように、

現実には存在しないものを「ある」とみなしたり、現実には存在するものを「ない」とみなしたりして、概念だけを考えるのが抽象的思考です。

絵画にも抽象画というジャンルがありますね。

あれは何か実際にあるものを描いているのではなく、何らかの印象であるとか心に浮かんだイメージなどの概念を表しています。

だから、見てもサッパリ分からないから自分には芸術のセンスがないのかな、と悲観する必要はありません。

見たままの雰囲気を感じれば良く、

「これは、ウサギのような形に見えるな」

などと決めつけてしまうと、概念としてとらえられなくなってしまいます。

スピリチュアルで言う、オーラやチャクラ、または神様も、実際に存在するかというと、まあ、ありませんよね。

見える人には見えますが、じゃあ見せてくださいと言って他の人に「ハイ」と見せられるものではないようです。

これらも、実物はないものを「あるもの」とみなして考えることによって、問題を解決しようとする抽象的な「概念」なのです。

ですから、
「神様なんか、見えないし、信じないぜ」という人は、
「%なんか、見えないし、使わないぜ」というようなものですね。
実際、ないのですが、あるとみなして計算することによって考えるのに都合が良いだけなのです。

もしも、難しくてなんだよく理解できないな、と思う物事があったときは、抽象的な概念としてボンヤリとそのまま受けて取ってみるのが良いと思います。

最初にお伝えしたように、世界は「理解できないもの」であり、永久に知らないことばかりなのです。

無理に知っていることだけで処理しようとすると、「概念を表していた抽象画」が「下手くそなうさぎの絵」になり下がってしまいます。

具体的に何なのかよく分からない、という状況をそのままにしておくのが、気持ち悪いようですが抽象的な思考には必要です。

そして、

「よく分からない何か」の存在を頭の片隅に想定しておくことで、問題がびっくりするほどシンプルになることがあります。

みなさんも、中学校の数学で平面図形の問題を解いたことがありますよね。

章末問題の最後の方、またはテストの最終問題は、たいてい複雑な応用問題です。

私は、解いたことのない問題はあきらめて他を完璧にする主義だったので、はなから試合放棄を決め込んでいました。

解けるかどうか分からない最終問題にチャレンジして、他の見直しをする時間を失うよりも、最後の6点をあきらめ、確実に94点を取った方がよいと考えていました。

しかし、後で答え合わせをすると、

思わぬところに一本の補助線を引くことで簡単に解けててしまうのでした。

なんだ、これだったらもうちょっと頑張ればよかったと思っても、後の祭りです。

今、目に見えていない何か、未知の存在あるいは概念が、あなたがあきらめかけている問題解決を手助けしてくれれるかもしれません。

そして、それは見ようとしない限りは見えないのです。

想像力

見えないものを見るのに、もうひとつ想像力がありますね。

マンガやアニメは想像の世界を投影したものですし、本で物語を読みながら場面を想像するということも日常的に行っています。

考えられる人は、この想像力を積極的に使っているようです。

ある人は、夜眠る前に、明日の予定を詳細にイメージし、一度「経験」すると言っていました。

そうすると、当日はすべて一度経験した世界になります。

つまり、明日から今日にタイムマシンで戻ってきたような感じになるので、色んなことがスムーズに運ぶのだそうです。

たとえば、

「5時に起きて、朝食と弁当を作って、鶏ひき肉が買ってあるから取りそぼろ弁当で、夕飯の下ごしらえをして、子どもを起こして、朝食を食べさせて、保育園に送って、電車に乗って、メールをチェックして、会社に着いたら・・・」

このように、まだ起こっていない未来、今目の前には見えないことを想像すると、

「あー、今日はプールの日だった、水泳セット忘れてた」

などと、創造の世界で一度失敗したりするわけです。

そうすると、2週目の現実はだいぶ楽勝ですね。

私は子どももいないし料理もしないし、会社にも勤めていませんが、上記のように妄想しております。

自分の未来だけでなく、人の周囲の状況や、過去・未来を想像することもできます。

誰かと話している時、今目の前にいる現在の相手だけを見るのではなく、

周りの人―家族、職場の人、友人との関係性や、
過去の出来事―今日、家をでてここに来るまで~生まれてから現在までの人生、
未来―将来はどうなりたいのか、何を望んでいるのか、

をその人の背後に想像すると、会話や態度、雰囲気からより多くの情報をキャッチすることができます。

もちろん、ここでも「理解できないという前提」で興味を持ち理解しようとし続ける姿勢、決めつけずにいろいろな可能性を残して判断を保留する姿勢が大切です。

3.考えられる人は世界を設計しようとする|人生のルールをデザインする

自分で考えられる人は人生のルールを自分で決定しています。

どういうことかというと、自分の調子を観察して、調子の上がるパターンを発見し、そのパターンに当てはまるように行動のルールや人生の選択における判断基準を設けているのです。

たとえば、「電話が鳴ったら出る」というのは当たり前の行動です。

ところが、間違い電話や、勧誘の電話もかかってくるわけで、そのたびにイラっとしてしまいますよね。

考えてみれば、「電話が鳴ったら出なければならない」というルールなんて、実はないんですよ。
会社の電話だとシカトするわけにはいきませんが、個人の電話ならば

「知らない番号からの電話には一切出ない」

という自分ルールを作ってしまって良いのです。
飲み会には不参加
帰省は4年に1回
1日1食
・・・
一般常識や、誰かに教わったことに囚われず、自分が生きたいように、生きやすいように、反社会的でない限りは自分のルールで生きて良いわけです。

「そんなことしていいの?」と思ったときは、やっぱり「なぜ?」を考えてみましょう。

彼女からLINEが来たら、すぐに返信しないといけない。
なぜ?
1分でも待たせると、機嫌が悪くなるから。
なぜ?
いつでもかまってもらえると思われているから。
なぜ?
いつもすぐ返信しているから・・・あっ!

等と言うように、実は思い込んでいるルールってあまり意味がないことが多いんです。

1日1回、何時ごろに返信するという自分がこうありたいというルールを決めてしまえば、相手はあきらめて合わせてくれるものです。

そうやって、自分から世界に関わっていくと「言いなりになって、押し付けられている感じ」はなくなり、世界が「自分で設計できるもの」に変わっていきます。

4.考えられる人は世界に言及しようとする|意見を言う

世界が混沌として、正しいも間違いもないと思っていつと、意見を言うのは何でもないことになります。

全ては不確かな「可能性」や「だれかの意見」です。

それならば、「私がこう思います」という不確かな意見も存在して良いのです。

自分が「自分と違う意見を認める」というルールを持っていれば、誰かに「違う」と言われたり、批判をされたりしても平然としていられます。

「あなたは、そう思うのですね。それは分かりました。でも、私はこう思います」
というだけです。

矛盾するようですが、主観ほど確からしいものはない、ともいえます。

たとえば、

「あの店の冷やし中華はまずかった」

という意見を持った人がいるとします。

もしも、この人が冷やし中華を食べたのが、現実ではなく夜寝ている間の夢だったらどうでしょうか?

店自体が存在しませんし、冷やし中華なんか食べていません。

しかし、「あの店の冷やし中華はまずかった」という、その人の主観は誰にも否定することができないのです。

「夢でも見てたんでしょう」と言われるでしょうけれど、

「夢の中に出てきた、あの店の冷やし中華は確かにまずかった」と言えばそれはその人にとっての真実なのです。

自分の主観を通して世界を描写することは、それ自体が価値あることです。

外食のレビューなど、おいしいか、まずいかは好みの問題もありますし、主観が入る。

それでも、やっぱり食べに行く前にはチェックして参考にするわけです。

こういうブログも、新聞社のニュースのように客観的な事実らしきものを述べようとするよりも、「あの店の冷やし中華はまずかった」のような意見が強く出たものの方が人気があるようですね。

意見を述べるとき、どうしても主観が入ります。

主観が入っていることを忘れずに、しかし自信を持ってあなたが見た世界を語りましょう。

5.考えられる人は世界を変えようとする|絶対に成し遂げる意志

ここまで習慣を身に着ければ、もう「考えられない人」ではありません。

自分の人生を、自分の世界を「ちゃんと考えて」つくっていける主人公です。

傍観者ではなく、主人公として世界にちゃんと関わり、ちゃんと語ろうとしていると、どうしても見過ごせない問題が見つかるかもしれません。

世界、というと大げさですが、身の回りにも、悲しい事や憤りを覚えることがありますよね。

もっとこうだったらいいのに、と思います。

そこで思考を止めてあるがままを受け入れるのか、

それとも

何か方法があるはずだ、と考え続けるのか。

今、ここにある世界は、古今東西の人類の先輩たちがどうにかもっとよくしようと考え、行動を積み重ねてきた結果です。

昔、物々交換が当たり前だった世界で、もっと便利に売り買いできないものかと考えた人が、お金を発明したのでしょう。

徒歩での移動が当たり前だった世界で、もっと楽に、もっと速く移動できないものかと考えた人たちが、鉄道や、自動車や、飛行機を発明したのでしょう。

平民が、女性が、政治に参加できないのが当たり前だった世界で、それはおかしいんじゃないかと考えた人々が、選挙権を獲得してきたのでしょう。

今、ある色んな「当たり前」を考えないでいたうちは、世界に対して何もできることがないように感じていました。

もう、社会の仕組みがちゃんとあって、行政や、企業や、お店がいっぱいあって、私が何をしなくても、世の中は回っていて、皆、幸せ。

「なぜ、そう言い切れるのか?」
「本当にそうか?」
「見えていないものはないか?」
「言えていない意見はないのか?」

自問自答の果てに、主人公に託された使命が見えてきます。

そして世の中についてどこまで深く考えているのかによって、発言や行動に重みを増していくでしょう。

絶対に成し遂げなければならない、という意志はそうして出てきます。

責任はありますが、関わる人に喜んでもらい、大きな幸福を感じられるでしょう。

深く考えられる人になろう・まとめ

深く考えるためには、思考のテクニックよりも、自分から世界に関わっていこうとする姿勢が大切です。

大前提として、世界は理解できないものであり、どこまでも知らない世界が広がっている、と受け入れることで考え続けることができるようになります。

その上で、もっと自分から世界に関わろうとすることで、自然と考えるようになっていきます。

まずは、目の前の出来事に興味を持つことです。

世界をよく観察すると、何か違和感を感じたり、変わったことに気づくでしょう。

「なぜだろう?」と洞察を加えることで、表面の出来事だけでなくそこに含まれる意図や因果関係が浮かび上がってくるでしょう。

つぎに、見えない世界を見ようとしましょう。

この世には、目に映る物体だけでなく、頭の中にしか存在しない概念がたくさんあります。

そこにない「補助線」が、見ようとしたときに見えてきます。

想像力が、さらに見える世界を広げてくれるでしょう。

あなたの周りの世界は設計していけるものです。

慣習に惑わされず、自分の人生が良くなるようなルールを採用しましょう。

させられている事やしなければならない事はなくせます。

そして、世界をあなたの言葉で語りましょう。

正しいことも、間違っていることも最初からありません。

全部が誰かの意見であり、一つの可能性に過ぎません。

あなたが言うことは、あなたの主観であり、それは誰にも否定できないことです。

世界をよく観て、深く考えているうちに、何かおかしいことに気づくでしょう。

もっと、こうしたらいいのに、こうだったらいいのに、と憤ることがあるでしょう。

世界の主人公はあなたで、他の誰もそのことに気づいていません。

気づいているかもしれませんが、怖がって、誰も言うことができません。

みんな、あなたが語る言葉を待っています。

みんな、あなたが行動するのを待っています。

深く考えるということは、こうして自分で自分の人生を変えていけることですが、一方で、世界を変える責任も伴います。

その使命の重さ=世界について考えている量と深さの分だけ、発言や行動にも重みが伴います。

そして、

助けた人の幸せの分だけ、大きな幸せを関じられることでしょう。

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